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romancista
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『世界の歴史17・アメリカ大陸の明暗』 今津 晃 河出文庫
南北アメリカは実は、対になっているところの多い、双子のような大陸だと書いてある。しかるに、新世界への植民のやりかたはまるで違っていた。北米は完全に家族が移住するためにやってきたけれども、中南米に入りこんだのは冒険者だった。
スペイン人はまず西インド諸島、すなわちサント・ドミンゴ、プエルトリコ、キューバなどを征服し、そこの先住民ほぼ100万人を殺すか病死させるか奴隷にするかして、一掃してしまった。ここがのちのインカやアステカ征服の拠点となったのだった。

ただ、それでは北米は平和に植民して文明を築いたかと言えば、ここでもやはり先住民に対して理不尽な暴力が振るわれることになる。新大陸に到着し、理想をかかげて出発しても、現実はそう生易しくはなかったし、どちらのアメリカも現在進行形として苦悩は続いている。


『古代アステカ王国』 増田義郎 中公新書
アステカは14世紀にできた国なので「古代」ではないのだが。
スペイン”不良”貴族コルテスの大冒険の話。美貌にして頭の切れるアステカ女マリーチェ、育ちが良すぎるのか国王として手も足もでなかったモンテスマ。ジャングルや湖上に展開する現実離れした事件の数々! 下手な映画よりずっと面白くて、一気に読みました。

スペインというのはイスラム勢力との戦いに明け暮れていた国だったので、他のヨーロッパに比べてある面では遅れていた。それは、よそでは廃れていた騎士道物語がスペインでは兵士に浸透しており、その物語では新世界が舞台となっていて、しかも、ストーリーは無責任に黄金の都だの、不老不死の泉だのを盛りこんでいた。欲に突き動かされて新大陸に来ていたあらくれ兵士たちは、マヤから海岸をつたってアステカを見つけると、湖の上に忽然と姿を見せた大都市に物語の黄金郷を重ねてしまった。
ところがアステカは数百人のスペイン軍を神の再臨と思いこんでいるがゆえに平和にもてなしていたのだった。なにしろアステカの戦士は勇猛果敢で、ひとたび戦争となるや、敵はひとり残らず生贄にしようと捕らえにかかる。そんな兵士が10万も控えている湖上の都市は逃げ場がなく、毎朝生贄の血が流れるのが見える宿舎で目が醒める恐ろしさ。自分たちをケツアルコアトル神と勘違いしている、その思いこみが消えるときイコール、自分たちが侵略にきた異国人だとバレるときである。……

*アステカの滅亡に関しては、「コルテスが来たのを神と勘違いしたのですぐ征服された」で済まされてしまうけど、コルテスにしても決して、バカ相手に労せずしてアステカを征服したのではないわけです。どっちかが悪でどっちかが善であったという読み方もできません。
ただ、太陽神をもっとも敬って生贄を続けていたアステカが、ケツアルコアトルという、太陽神の敵になるような合理主義の神を、自らの神話でストーリー上は追放しておきながら、神話そのものからは抹消しなかったというのがとても劇的に思われました。

『物語 スペインの歴史』 岩根圀和 中公新書

イベリア半島からイスラム勢力を一掃し、国土回復運動を15世紀に完了させるスペイン。その勢いを駆って、ライバルのポルトガルに負けじと新大陸に乗り出した。そこでスペインが行ったのは虐殺と略奪と言いきっても過言ではないかも知れない。ところが、短期間のうちに大量の黄金や銀を本国に持ちこんだものの、それは次の戦争の資金としてどんどん消耗されていくのである。
宿敵イギリスの暴虐をとめるべく、フェリペは無敵艦隊の出陣を決意するが、波のおだやかな航路にしか慣れていないスペインの船は、北の荒波と機敏なイギリス艦隊に悩まされ、艦隊トップの無能さも手伝って大敗北を喫する。このとき8500人の兵士が死に、新大陸から届く金銀の一年分がドーバー海峡に沈んだも同然の結果となった。

*スペインが新大陸で先住民に対して寛大でなかった背景には、トルコと長年戦いすぎて、異質な文化との共存共栄は無理だと決めつけるだけの幻滅があったのかも知れないですね。のちに、力を得たカトリック勢力は、スペイン本国において異端裁判という大量処刑を繰り返すようになります。
フェリペが平和主義者だったというのがなんだか切なかったです。現代に生まれて首相になればよかったのかも。
著者が文学者らしくセルバンテスもたびたび出てくる本でした。大災難に遭いつつ、性格はとても良い人だったみたいね。


=スペインが新大陸から西側にもたらした、金銀以外のもの=
じゃがいも・トマト・トウモロコシ・煙草・ココア、梅毒。
ヨーロッパから特にキューバに持ち込んで生産に大成功したのがサトウキビ。
砂糖の値段が安くなり、甘いものが特権階級のものでなくなったのはこのサトウキビのおかげとか。
マヤのチョコレートは砂糖が入ってなくて、トウモロコシの粉やトウガラシが入っていた、儀式ぽい飲み物だった。これを甘くしたのはスペイン式。
マヤの末裔が作っているトルティーヤは、今見ても美味しそうです。
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○インカ文明○

マヤアステカときて、次がインカですけど、これだけは南米大陸、しかも山岳地帯が舞台となっています。人種は、同じモンゴロイド系だからそんなにすごく違うわけではないし、類似点も見られます。例えば太陽信仰や天体に精通していること、生贄など。それからここもスペイン人にあっけなく滅ぼされたということです。

インカは大変有名ですが、このインカと名のつく文明=国家は、わずか50年ほどで築かれました。それは、もちろん、ゼロからできたのでなく、昔からあるほかのアンデスの文明圏をインカが吸収していったからです。その早業の理由を、この展覧会では、ミイラをキーワードとして提示してあります。

アンデスの乾燥地帯では、人を葬ると特別な処理をしなくてもミイラになりました。(家畜の世話をしてくれた犬も丁寧に葬っていたらミイラ化したという実物があります)。インカは、皇帝が死ぬと、その遺骸をミイラにして、そしてまだ生きているという扱いをしました。死んでいるはずのミイラ皇帝は、次の皇帝に所領を贈与することがありません。(そういうものは親族が相続)そのため、次の皇帝は、まるで裸一貫の若者のように領土を獲得し、自分の国にしていかねばなりませんでした。自然と、インカの領土は外へ外へと伸びていきます。そしてわずか50年の間に、アンデスのほぼ4万キロをインカの道が走り、第9代皇帝パチャクティがすべてを統一したため、一大帝国が築かれたのでした。

この9代目は本当にやり手でした。あのマチュピチュをつくったのもこの人で、昔はスペイン人に追われてここへ最後の抵抗拠点を作ったという説がありましたが、今ではパチャクティの乾季の別荘であろうと言われています。乾季、というのは雨季には雨が降りすぎてクスコから移動などしてこれないからでした。
インカの石組みは「かみそりの刃も入らない」といわれる隙間のない組み方をしてあります。それは、地震に強いのもあるだろうけれど、山岳地帯にギリギリの段々畑を作って生活しているので、水が石組を流してしまうようでは困るのだと思います。実際、マチュピチュには排水のための精巧な水路もちゃんとありました。
インカは帝国ですが、一千万の人口を抱えた完全な福祉国家でもあったと言われます。高低差と気候を利用して作物を栽培し、収穫したものはクスコに集約されるのでなく、地元の住民に配分されました。農民は、農作業のない時期には公共事業の手伝いをし、報酬も貰えました。インカでは黄金もよく手に入りました。黄金の色が太陽の輝きを連想させるのか、「太陽の汗」という言い方をしたようです。首都クスコはこの豊富な黄金ではりめぐらされ、情報はキープという(素材はラクダ科動物の毛らしい)紐で記し、国の隅々まで通じるインカ道をチャスキという飛脚が走って届けました。医療技術も高度で、頭蓋に穴をあける手術をやっていたことが明かです。

その一方で、アンデスにいるラクダ科のリャマは40キロくらいしか運べないため、乗用にはできません。それで皇帝が移動するにも人が、輿に乗せて運ぶというわけでした。青銅器はあっても鉄器がないので、戦争は棍棒で頭を殴りつける感じ。鉄器がなかったのは、中南米ではついにふいごの技術が発見されず、高温ではじめて加工できる鉄を使えなかったかららしいです。

それから、インカにもやはり生贄はありました。山の神に捧げる少年少女を着飾らせ、ごちそうを与え、おそらくは眠くなるお酒かなにかも飲ませ、山頂付近に置いてくるのです。子供はそこで凍死。生きていたときの姿のまま、眠ったような顔をしたミイラになるのです。インカの生贄は、アステカのように数を捧げるより、えりすぐりの美しい子供たちでした。乳幼児の頃から頭の形を変えて身分を示すというような乱暴なこともあっているので、あるいは、生贄になる子も生まれてすぐ、綺麗になりそうだったら生贄になるエリートとして育てられたのかも知れません。生贄は、男子は10歳くらい、女子は16歳以下というきまりがあったようです。

このインカ帝国は、黄金に目がくらんだスペイン人、フランシスコ・ピサロ一味に攻撃を受けます。スペイン人が乗っていた馬にインカの兵士でさえ驚きました。南米の馬は、氷河期に絶滅していて、誰も馬を見たことがなかったのです。スペイン軍は少数なのにインカを圧倒し、皇帝アタワルパは捕虜になりました。彼はピサロに、身代金を払うと言います。ピサロが話を聞くと、今自分のいる部屋一杯は持ってこれる、と皇帝は答えました。
スペイン軍は、ここで得た数トンもの黄金を、ぜんぶ潰して延べ棒にして本国に送りました。(中南米でつかんだスペインの黄金により、ヨーロッパで貨幣価値の混乱が起き、小麦の値段などが高騰していくのはまたのちの話です)
それほどの身代金にもかかわらず、皇帝アタワルパは処刑されました。
スペインが延べ棒にしてしまったので、インカやそれ以前のアンデス文明の金の工芸品の類は殆ど残っていません。また、生きているかのように手入れされ、輿で移動をしていた皇帝たちのミイラは、気味悪がったスペイン人にことごとく破壊されました。住民は銀山で強制的に使われ、悲惨な目にあわされました。

それから数百年。1911年にここを訪れたハイラム・ビンガムというアメリカ人が、マチュピチュを発見します。スペイン人も見つけきれなかったパチャクティの空中都市は手付かずのまま、標高2400メートルの峰に美しい姿で残っていました。
今現在調査でわかっていることは、16世紀当時にここにいたインカ人(パチャクテイの子孫ということになる)は、スペイン人がマチュピチュまで2,3日の距離まで迫ったという情報を得て、大切であった水路に割れた陶器のかけらなどをさんざん放りこんで、機能しないようにしてから、放棄したのだそうです。
マチュピチュとは「老いた峰」という意味があり、この向こうにワイナピチュ(=若い峰)という名前の地もあるそうです。マチュピチュを捨てた人々は、さらにスペイン人の手の届かない奥地へと去っていきました。

マチュピチュは相当な高山なので、見ているとロマンですが、最近は有名になりすぎて?観光客がインカの石段をすり減らし、バスが通り、携帯電話が感度良好なんだそうです。
世界遺産というのは残したいから遺産というのだろうに、TVで見るあの観光客の多さは、スペイン人のように強奪や破壊をするわけでなくても、別の形で文化を消耗させているように私には見えます。
そりゃたしかに、鉄器も作れない、馬くらいでびびる、自然に祈るのにいちいち命を捧げる。普通に今の目で見て野蛮でおバカみたいなところもあります。けれど、スペイン人がここ(マヤもアステカも含め)を破壊しつくした背景には、西側世界こそが人類の歩んできた世界と文化であるという自負なり当然の認識なりが、まさに新世界との遭遇により崩れたという、どうしようもない居心地の悪さもあったのではないかと思います。

そして今また「発見」し、「遺産」と呼び、嬉しそうに遺跡の間を歩き回る観光客も多くが西側の住人。この空中都市をみんなで愛でるのはいいとしても、ギリギリの努力と犠牲の上に成り立っていた固有の文明という面影がうすれて、俗っぽい、ねずみーランドリゾートのようになってしまったということがないようにはしてほしいです。


*シリーズはあと1回続きます。それは、マヤインカアステカを滅ぼして、黄金だの都市だのをそっくり頂戴してしまったスペインの、その後の話。


おとといから疲労気味。今回はアステカですが、余裕ができたら加筆します。

○アステカ文明○

現在のメキシコに位置する湖に作られた都市とその文明がアステカです。北のアストランという小島のある湖から放浪してここへ都を造りました。その民の名前がメシーカ族。メキシコという国名のもとになっています。

繁栄したのは14から16世紀。湖を埋めたてし、農地を浮島に作る技術があり、陸地では人の足で移動するしかなかったのが、ここではカヌーで楽に移動できました。
さて、その都チノチティトランには双子の大神殿があるテンプロ・マジョール(スペイン語で文字通り「大神殿」)がありました。奉じられている太陽と戦の神ウィツロポチトリと雨と農耕の神トラロックは、相対する存在であり、結合させることで信仰の統一を可能にしました。その神のほかにもアステカではいろいろな神がいることになっていました。けれど、一番大事だったのはやはりその太陽・戦争・雨(水)・農耕、ということだったようです。
メキシコシティ北東50キロにあるテオティワカンの遺跡は、アステカの時代にもすでに遺跡でしたが、ここで太陽が生まれたという神話はアステカに受け継がれ、人々はテオティワカンへ巡礼し、発掘していたそうです。そして太陽をはじめとする自然の恵み(ニュアンスとしてもっと強烈なものを感じるので、恵みというより神格化して守護を願ったというべきか?)を願い、アステカでは生贄儀式が大規模に行われました。

1978年、メキシコシティから出土したテンプロ・マジョールは、ただの神殿ではありませんでした。先の二人の神をまつる祭壇が頂にあり、そのすぐ手前にチャックモールという、壷か何かを抱えた人の姿があります。厳密にはこのチャックモールは人間ではなく、神々へ人間のささげ物を渡す係。半分寝たような姿で神殿の正面を向いています。よく見るとおどけたような顔にも見えるのですが、捧げ物が何であったかを知ってしまうと逆にナンセンスな恐ろしさを感じさせる顔だと思います。
神殿のすぐ下には月の女神を描いた円形のメダルのようなものがあります。これは、太陽の神が月の女神を倒し、山の上から放り投げたというアステカ神話の再現です。

アステカでは神話にたびたび、切り裂かれる・火に飛びこむ・血を流して捧げるという文句が出てきますが、これも実際に再現されていたみたいです。戦争をするとき、捕虜は生贄にされました。戦場は花畑であり、人は花に喩えられました。戦士が死ぬと蝶になるというイメージもあったようです。アステカでは太陽神と同一視されたエリート軍団「ワシの戦士」が生贄となる者たちを捕らえる役目を与えられていました。
そして生贄は祭壇で心臓を抉り取られるか、首を切られるか、縛り首になりました。飢饉・旱魃・その他何事かあるたびに儀式は行われ、その数は多いときには数千人となり、テンプロ・マジョールは血に染まったといいます。
斬った首を陳列するのがツォンパントリ。スペイン軍と戦ったときの捕虜と馬は、首級がここへ飾られていました。また、雨の神に捧げられるのは子供たちでした。儀式のときに子供が泣けば泣くほど、よく雨が降ると言い伝えられていたらしいです。

前に書きました「アポカリプト」はマヤの終わり頃という設定の映画でしたが、生贄の儀式はアステカのそれの再現フィルムに限りなく近いかも知れません。生きている人間を押さえつけてナイフ(切れ味の良い黒曜石製)で胸を切り裂くという様子は、これも歴史の一面とはいえR12PGくらいじゃないかと思います。

アステカの生贄を見たスペイン人たちは、これを「悪魔の仕業」と呼んで、徹底的に破壊したそうです。ただしいきなり武装してアステカに入りこみ、差し出された黄金に目がくらんで欲を出し、内部崩壊に乗じて文明を破壊したスペインのやりかたは悪魔の仕業ではなかったのかどうか、という点も同時に議論されていいと思います。スペインはここにも疫病をまきちらし、先住民は激減してゆきました。

終わり頃のアステカの生贄は軍事的な威嚇と紙一重であり、周辺部族に力による従属を強要しているだけではその権力はいずれぐらついてくるものです。しかもそのくせ神話はただの言い伝えではなく、リアルで再現されるべきものとなっていました。
1519年、たまたまその年にひとめぐりしたアステカの暦と重なって出現しただけのスペイン人を「戻ってきた権力者ケッツアルコアトル」と神話を見る目で見てしまい、侵略者と見なして撃退するチャンスを逃してしまったことは、(生贄の風習がなくなって助かった人もいたでしょうが)文明としてのアステカにとっては、やはり不幸でありましょう。

アステカでは独自の終末思想を暦に組みこんであり、やがて太陽の時代(世界)は滅ぶという前提のもとに、世界を維持すべく必死で生贄を捧げていたようにも思われます。かれらはそれほど自然のありように敏感であり、神経質でもあり、生き延びるために知恵を振り絞り、もっとも大切なものをすすんで犠牲にしました。生贄の場面が余りにも凄惨なので血生臭いばかりの印象を与えがちですが、アステカにはある意味ストイックなエコロジストの一面も見えるのです。

都があった湖もスペインによって埋められてしまったので、アステカの遺跡は今も発掘中です。



福岡市博物館で3月25日より開催中の特別展に関連の話をさせていただきます。
・・・で、いきなりその1なのは、どうも大掛かりな内容なので1度で語れないからです。
あまり知識もなく飛びこんでしまったし、せいぜい嘘を書かないように注意せねば。
最初はマヤ文明、次がアステカ、最後にインカと連載します。(週刊くらい)



○マヤ文明○
マヤインカアステカの中でもっとも古くからあったのがマヤ文明です。今のグアテマラ付近に多数の都市が栄えた密林の文明。ということで、会場に入ると地図の次にどーんと石碑が立ち、ジャングルの雰囲気。
TVでも放映されましたが、マヤには大きな河がありません。だから、ひとつの言語と文化を共有する都市国家がそのままネットワークだけをつなげて、共存共栄していたのでした。戦争も不意打ちはせずに、金星の位置によって始め、しかも戦争をするのは王と貴族くらいで、平民は巻き込まれず、負けた国が滅ぼされることもありませんでした。ただし、生贄の習慣はありました。雨は人の力で降らせることはできないので、人柱が必要という考えからです。戦争捕虜にした敵国の貴族や王を神々に捧げるというのもありました。

そんな国のひとつであったティカルは、街全体を微妙に傾けて、防水加工に漆喰を塗り、降った雨水を貯水池に誘導したそうです。そうやって水を確保できたティカルは繁栄するわけですが、繁栄すれば人口が増加する、その人たちが食べていくために農地が増加する。マヤの農作業は今でも焼畑です。その年に植え付ける範囲だけを焼いて耕作することで、森の再生を促し、決して全部を焼き払ってしまわない。それがルールですが、繁栄しすぎたティカルは、とうとう森を失ってしまいました。その結果どうなったか。作物が採れないばかりか、水の確保にも支障をきたすので、労働力が流出し食料も不足します。それを補うために、ティカルは近隣の都市に攻撃をしかけ略奪し破壊しました。
天体の動きに精通し、少ない水を見事にコントロールし、芸術性の高い文字や装飾を丁寧に創造し、壮麗な神殿をつくり、栄華を誇った王たちに守られていた、マヤ文明のエースとでも呼べそうなティカル。しかしながら、マヤの戦争に関する暗黙のルールと、環境と都市発展のバランスという大切なものを、ティカルは破ってしまったのです。

マヤは、最終的にはスペイン人の征服により(特に、スペイン人が持ちこんだ疫病により)滅亡し、以後数百年にわたり、密林に眠っていました。空撮の映像は(気持ち悪くならないように気をつけて!)、ジャングルに埋もれて見えるティカルの神殿を捉えています。今は石だけの灰色の神殿ですが、本来は赤く塗られていたそうです。滴るような緑の中の真紅の神殿は、一体どんな風に見えたでしょうか。

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